2014年12月12日金曜日

#39 Out of Japanese~日本語の外へ~


どうも!

今回この記事はトロントでの生活をお送りするためではなくある男の約束を果たすことを目的に書いています
 
その約束を果たすために、ある一冊の本に関して、その内容紹介とそれに対する僕の考えをまとめたいと思います

いつもみたいにフザけまくった雰囲気じゃないですが、英語に少しでも興味のある人にとって何かの気づきになればと思います

今回紹介する本、それは...


片岡義男著、『日本語の外へ』です

ね、おもんなさそうでしょ?笑

間違いなく今までの人生で自腹切ってかった本の中でズバ抜けて読むんがしんどかったです

なんというか、自分のためにはなるのは分かるねんけど全然気持ちが進まない青汁みたいな本でしたね(笑)

そんな青汁な本と出会ったのは一年前の4月30日...

僕はこの日、元開進館のメンバーと恩師である新田先生と大濱先生とともに西北の居酒屋で卒業以来5年ぶりの再会を果たし、当時の思い出話に花を咲かせていました


その会話の中で読書家で有名な大濱先生に『おすすめの本を何か教えて下さい』と尋ねて、「いやー、俺はあんまり人に本勧めるのは好きではないんやけど...」っと渋りながらも紹介してくれたのがこの本でした

お酒が入っていたこともあってその時に『読んだら読書感想文書きますね』と自分で自分の首を絞めるような発言をしてしまい今回一年以上の時を経てその責務を全うする運びとなりました(笑)

まぁ別に強制された訳じゃないんですけど、男の約束なんで、ね(笑)

飲み会の翌日にすぐAmazonで買ったもののあまりにも難しい...ってかぶっちゃけおもんなくてほったらかしてたんですが、先日日本から救援物資を送ってもらう際に一緒に送ってもらいそれから約3か月間のリベンジマッチの末ついに619ページの強敵との勝負に終止符を打ちました

今まさに『日本語の外』にいる環境でこの本を読んでみると、ものすごく考えさせられることがあったので今回はそれを自分の中で反芻することも兼ねて、皆さんとシェアしたいと思います

この本は大きく分けて2つのパートから構成されています

第一部がアメリカ、第二部が日本語

前者では湾岸戦争から筆者の考察が始まり、時代の変遷とともにどのようにして今のアメリカができたかを解説し、後者に関しては日本語と英語の相違点と日本とアメリカの歴史的背景をベースに最終的には『日本語によって生きる』ことの意義を唱えているような構成になっています

今は3行程度でまとめましたが、まぁこんな内容が619ページに渡ってずらずら書かれてるわけですよ

国語の授業で塾講師時代よく『大事なことは筆者が何回も言い方を変えて言ってくるからそこに注目しろよ( ̄Д ̄)ノ』っと言っていた自分の言葉通り、この片岡さんはもうこれでもかっておんなじこと言ってくるんでそれがもうフラストレーションでした(笑)

多分第二部だけでまとめたら30ページくらいにまとまるんちゃうかな?笑

ということで、ここからは留学生留学しようか考えている人留学した後の英語学習の目標がない人英語が好きな人英語は苦手だけど興味はある人、そんな人たちにとってプラスになるかも知れないことについて本書の内容を交えながら書きたいと思います!

〇日本人の英語
『日本人の英語とは、99.99%は日本語で残りの0.01%を英語という薄い皮で覆ったようなもの』
これは留学している人なら分かる人は多いのではないでしょうか。伝わるけど、なんかネイティブの英語とは違う...この疑問を追求した結果たどり着くのがこの答えではないかと感じます。日本語の感覚のまま英語を使っている例はいくらでもあるけど、最近Twitterで見ていて気になったのが"On the 眉毛"という言葉。若年層を中心に前髪が眉毛よりもにあるという意味で使われている。分かるねんで...分かるねんけど、"on"という前置詞は『~の上に』という意味よりも『接地している』というニュアンス強いので前髪が眉毛にピタっとくっついてないと本物の"On the 眉毛"とは言えないわけで...。どうしても前置詞を使って言いたいのであれば"Above the 眉毛"が正解ですね(笑)
ここで、一番問題なのは間違って日本語として浸透している英語対してなんら違和感を感じない日本人の英語的感性ではないかと感じました


(例)Above the 眉毛

○IとYouの話
『I=私という訳は根本的に間違っている』これはこの本の中で最も『なるほど~』となったテーマですね。中学生で英語の授業を初めて受けた時に"I am Tom."はトムです。』 という意味だと習いましたよね?しかし、作者は英語の"I"に相当する日本語は存在しないと断言しているのです。その真意は何か。この"I am Tom"という文を例にとって説明してみましょう。例えば、このTomが後輩に対して、"I am Tom"と言った場合、きっと和訳では『はトムだ。』が正しいでしょう。次にTomが仲の良い女の子に同じフレーズを言った時には『はトムだよ。』がベストな和訳になるのではないでしょうか。
ここで重要なことは、日本語において一人称とは相手との関係によって変化するということです。言い方を変えるならば、相手なしに日本語で自分と言う言葉を表現するのは不可能であるということを示唆しているのです。日本人は相手(二人称)が自分と比較した時に上か下かを判断した上で自分の立ち位置を決めます。これは、上下関係においていかに自分が利益をだすことができるかを意味しています。自分よりも目上の人には敬意を払うことが最善だし、自分より下の人には相手より優位な位置にいる方がベストであるという日本人に潜在的に備わっている考え方なのです。
そしてこれは常に『主観的』なとらえ方をしています。自分の目線から見て、自分の利益を最大化する方法を常に模索しているからです。そして、その主観性が最終的にたどり着いたのが『主語を省略』するという日本語特有のカタチです。自分の立ち位置を曖昧にすることによって、相手との関係をフレキシブルにするという日本人の知恵が今日の日本語のカタチであり、外国人の日本語学習を困難にしているものとなっているのです。 
逆に英語では"I"は絶対的に"I"やし、同様に"You"は絶対的に"You"なのです。英語において主語とはそれ以降に起こるすべての責任がどこに帰属するかを示すものであり、動詞とは言葉自体を前進させるものであると筆者は定義しています。つまり文の中で、主語と動詞の因果関係がはっきりしているのが英語の特徴なのです。言い換えるならば、英語とは言葉全体を『客観的』にとらえる言語であるということです。
つまり、日本人の英語で述べたとおり、日本語の視点のまま英語を学習することはものすごくナンセンスだということです



 
○英語は厳しいルール(英文法)が求められる言語
英語とは『このことに関してはこのように表現してこそ自分なのだという、個人と言うものの根源にかかわる』言語活動のスタイルである
これは実際に留学している人たちに特に声を大にして言いたいことです。カナダに来てから確信をもって言えること、それは『英文法の洗練なくして英語能力の向上はない』ということです。英文法を習得せずに英語を話そうとすることは説明書を読まずにプラモデルを組立てようとするのと一緒のことです。もちろん『俺は理屈じゃなくて体で覚えるタイプやから』という人もいるでしょう。それぞれの人にあった方法はあるんで否定はしません。でも、作るプラモデルが複雑になったら?作ってる途中に壊れたら?完成の期日が迫ってたら?同じことがいえるでしょうか?ルールがあるものを理解せずにやみくもに取り組むのは、非効率な上に不測の事態に対して対応する能力が極めて乏しいように感じます。英会話において自分が予測していないことに対応しないといけない場面は多々あります。ってか大体そうです(笑)聞かれた時にスマートな返答がその時にできないと意味ないわけです。家に帰ってからベストアンサーが思いついてもそれは意味がない訳で...
英語には絶対的なルールとして英文法が存在しています。一つの事柄に対して表現の方法は多数ある一方で、カウントされる表現は全て文法的であるのが英語の特徴です。こういうことを言うと反対意見として必ずと言っていいほどでるのが『ネイティブは文法なんて気にしてない』とか『文法を気にして萎縮してしまっては本末転倒』といったことです。まず前者に対して解答するならば、これは大きな間違いです。海外にいれば気づくと思いますが、ネイティブの人は絶対に文法的に正しい英語を使っています。もちろんスペルミスや発音をミスすることはあるでしょうが英文法から逸脱した英語を話している人は見たことがありません。次に後者に関して、もちろん文法のことばかり気にして英語が話せない、聞き取れないという状況に陥ってしまうのは言語道断でしょう。『まずは文法を気にせず話してみることが大事』その通りだと思います。でも、いつまでそのステップで止まっているんでしょうか?海外に来て個人差はあると思いますが、たいていの人は2~3か月もあればそのステップに到達するでしょう。一年間海外にいるのであれば、残りの9か月も同じステージに留まっているのは全くナンセンスだと感じます。ネイティブのように話したいと思うのであればしっかりと英文法に取り組みましょう。ネイティブの人々だってずっと学生時代英文法やってるんですから(笑)英語学習者の僕たちがやらない理由なんてどこにもないんですよ(´・Д・)」
ネイティブのように意識しないで文法的な英語を話したいのであれば、意識せんでも文法的な英語が話せるくらい英文法をしっかりやるしかないんです。これは、海外生活をしているだけでは確実に不十分です。実際に生活してれば分かると思いますが、買い物するだけやったら"Do you have a members' card?"とか"Would you like a bag?"という質問に対して"Yes""No"で答えて終わりでしょ?こんなんで英語ができるようになるんやったら誰も苦労してへんでしょ(笑)特に文法学習に力入れずに時間だけ過ぎても変なスラングだけ覚えて帰国するのが関の山だと感じます(笑)


 ○言語の背景にある文化をとらえる
『和魂洋才』
この言葉はこの本を読んでいて一番気に入った言葉です。先にも書きましたが、この本とにかく余分なページが多い(笑)特に前半のアメリカの歴史の部分なんてなくてもいいぐらい...
でもまぁ最後まで読んでみたら筆者が言語の本なのに歴史について多くのページを費やしたことがうなづけるような気がします。
1853年7月8日...
日本史好きならピンっとくる日付ですよね?そうです、あの有名なペリーが黒船に乗って浦賀に来航した日です。僕は社会の授業で『いやー、(18)ペリー来るとかマジで誤算(53)』で中学生に教えてました(笑)まぁ言えばこの日からアメリカと日本の関係が始まったわけですよね。それまで鎖国をしていてオランダと中国以外とは何のかかわりも絶っていた日本は黒船を引き連れたアメリカを目の当たりにしてビックリするわけですよね?知らない間に自分たちを遥かにしのぐ国家があることを知って。それから日本は『脱亜入欧』『富国強兵』を合言葉に、西欧に追いつくためにデモクラシーが起こる。まぁざっとこんな流れですよね?
この本の中で筆者は、『日本は当時の西欧がすでに持っていた科学の成果である技術だけを取り入れ、その背後にある精神はいっさい学ぼうとしなかった』と述べています。まぁこれが日本人が文法をスキップして英語だけ習得しようとする姿勢の根本的な理由の一つと本の中では言われております。
これはいまの僕たちにも当てはまるように感じます。海外で生活していてその国の歴史はおろか自国の歴史・経済にとんちなのが日本人です。幸いにも、僕はそれを予見していたので留学前にちょっとは勉強しましたがそんなん焼石に水でした(笑)本当に英語が学びたいのであれば、それを使って生活している人々がどのようにして今日を迎えているかを知らないと留学している本当の意味はないのかもと思ったりもします。英語をネイティブと話すだけやったら駅前留学でいいですもんね(笑)
それ以前に日本人として自国の歴史や経済に興味を持つことも重要だと思います。まぁこんなんみんな言ってるんで月並ですが...
外国の友人と飲みに行ったら必ずと言って自国の歴史の話になります(まぁ、日本の女の子が好きなだけのネイティブもいるんで、誰とどこに行くかにもよるやろうけど...笑)その時に何も答えられないようだったらそこで会話終了やし、その人は自分のことを「自国に興味のない日本人」として捉えるでしょう。
『日本人はこういう歴史辿って、俺はいまこういう人間なんやで』 と胸張って言えるように『和魂洋才』のスピリットがめちゃくちゃ大事だと感じました


 
○人間の思考の限界=言語の限界
『ひとりの人の頭が世界をとらえるときには、とらえやすいように極端に整理したうえでとらえなければならない。そのとき、どうしても必要になるのが、言葉というものだ。』
留学していると英語のことばかり気にしてますよね?まぁ当然っちゃ当然なんですけど、何か考えるときって絶対母国語である日本語で考えてますよね?ここで言われているのは母国語である日本語において、知っている単語、情報、知識がその人の思考の限界であるということです。母国語以上に他の言語を使うのはほぼ不可能です。なぜならば、人間は母国語を軸として他言語を習得するからです。つまり、母国語での理解がその人の理解の限界を意味するわけです。僕は勉強していてこのことを実感する場面が多々あるのですが、最近だと"mortgage"という単語の意味が分からなくて調べた時でした。英和辞書でひくと『抵当権』であるということが分かりましたが、僕はその抵当権の意味があやふやにしか分からなかったのです。その後国語辞典でちゃんと調べましたが(笑)ここで何が言えるかと言えば、日本語で知っていることしか英語でも使えないということです。実際に英語を使うとなると日本語未満になると思いますが。つまり、母国語のレベルを上げること≒英語のレベルをあげることになるということです。『日本語と英語は別物だから...』という人もいるでしょうし、この本でも基本的にはそこに焦点を絞って書いています。しかし、ルールは違っても『言語』という範疇ではかなり密接な関係があると思います。英語で自分の気持ちを表現したい、気持ちを伝えたいと思う時に言いたいことはあるけど語彙力不足でできないのとそもそも母国語でも答えられないのとでは全く意味が違うのです。もっと言えば母国語の理解を深めることはある意味日本にいる時にできる留学に向けた最大の準備になると思います。

いやーここまで辛抱強く読んで下さりありがとうございます

ここまでたどり着いた人が何人いるんでようね?笑

多分かなり多くの人が原西よりも下の部分読んでないような気もするんですが(@ ̄ρ ̄@)

読んでくれた方に何かプラスになることがあれば最高です!!

最後に僕なりの結論を書くんだったら、『英語と向かい合う』ということは
結局は"Out of Japanese"『日本語からということになるんではないかなと思います

この〆かたは最初から決めてたんでこれで終わらしてもらいます(笑)

大濱先生、添削をよろしくお願いします!

次はもっとカジュアルな記事書くんで今回は勘弁してください!笑

では!

Give Me Your Comment(´・Д・)」

2 件のコメント:

  1. 鍋島君

    まず、あの酒宴での何気ない会話を“男の約束”と捉まえて、果たしてくれてありがとう。そしてお疲れさま。そして読破おめでとう。鍋島と、このヤングジーニアス級に厚みある書籍を共有できて嬉しいです。

    少し、鍋島君の感想を引用して僭越ながらコメントを付けさせてもらいます。

    ★"Above the 眉毛"が正解ですね(笑)ここで、一番問題なのは間違って日本語として浸透している英語対してなんら違和感を感じない日本人の英語的感性ではないかと感じました。
    →「外国語を正しく学ぶ」ということに関してはこの感性は悪しきに働く一方で、あらゆる外来語を“日本語化”するという(どんな野菜も日本語というポットに入れると解けて日本語というスープになるように)ところは、日本人の言語的感性として凄いことやと思う。もともと、日本語における漢字自体、外来語を取り入れたものやし、「ガソリンスタンド」とか「オートバイ」みたいな和製英語も、良いか悪いかは別にして、使ったったらこっちのもん、みたい。そういう意味で、日本人の言語的感性は、自国語と他国語の境目が凄くファジーなんだと思います。だから柔軟に取り入れてしまう。自国語が確立していないからこそのアイデンティティの揺らぎみたいなのもあるのかもしれないし、善かれ悪しかれだけど、いずれにせよ、鍋島君がここに注目したのは、慧眼だと思います。

    ★その主観性が最終的にたどり着いたのが『主語を省略』するという日本語特有のカタチです。自分の立ち位置を曖昧にすることによって、相手との関係をフレキシブルにするという日本人の知恵が今日の日本語のカタチ
    →この“曖昧にする”というのが、責任を負いたがらない日本のメンタリティを形成しているので、俺はここは(現代のビジネスや、グローバルなコミュニケショーンの文脈で捉えるならば)日本人が最も意識して改善していかないといけないポイントやと思う。仕事してても、「それって誰に言ってるの」、「それって誰がやるの」っていうのもよくあるし。。
    また、加藤周一が「Euphemism」ということを言ってたけど、表現においても核心を避けて迂遠的に表現することがよくあって、「兵士用性奴隷」と言わずに「従軍慰安婦」と置き換えることで問題をぼかすということに、少なくとも自覚的にならないといけないなあと思います。

    ★『英文法の洗練なくして英語能力の向上はない』
    →その通りやと思います。例えば仕事で企画書をプレゼンする時に、いくら良い内容であっても、箇条書きのインデントがバラバラとか、フォントがそろってないとか「モサい見た目」だとそれだけでなめられて、肝心の中身を意識してもらえなかったりする。また、文法を無視した英語は「感覚的」になるけど、自分の感覚と他人の感覚が一致するとは限らないから、意図を正しく伝えるためにも正しい文法は必要なのかなと思います。

    ★『日本人はこういう歴史辿って、俺はいまこういう人間なんやで』 と胸張って言えるように『和魂洋才』のスピリットがめちゃくちゃ大事だと感じました。
    →これは、海外に行かんとする日本人諸氏が最も肝に銘じるべきことと個人的には考えています。海外に行くと、「Aさん」という固有名詞として見られると同時に、「日本人」という一般名詞でも見られていて、「自分のこと」と同じくらい「自国のこと」について知っていたり、考えをもっていないと駄目だと思っています。サッカーのホンダも、移動中のバスの中で「白洲次郎」を読んでいたというし。そこはまさにいま鍋島君がカナダでいちばん感じていることだと思うので、「和魂洋才」というフレーズが響いたんだと思います。ゲーテが確か、「外国語を学ぶということは自国について知ることだ」って言ってたように思いますが、外国語学習の意味はそこにもあるよね。

    ★母国語である日本語において、知っている単語、情報、知識がその人の思考の限界
    →その年齢でこのことに気付き、自分の言葉で語れるのは凄いと素直に敬服します笑。言語学習だけじゃなくもう少し抽象化すると、「インプットの限界が、アウトプットの限界」ということもできるし、「練習でできないことは本番でもできない」という言い方もあるし、オジさんになって勉強するのをやめるというのは、「今以上のアウトプットを果たそうとしていない(=成長をやめた)」ってことで、それが「オジさん化」ということなんだと思います。読書も、自分の知らない世界を広める一つだし、知らない場所に行く、新しい人と会ってコミュニケーションをおこなう・・というのもすべてインプットを拡大するということだから、そういうことを貪欲に求める人が「成長志向の強い人」なんだと思います。

    最後の「日本語から」という気付き。自分がこの分厚い本を読んで得たことを、エッセンスを自分なりに言葉にするというのは素晴らしいね。

    これを読んで、青汁といいつつ、ちゃんと自分の身に置き換えて、栄養を吸収しようと嚥下した様子が伝わってきて嬉しい。この読書経験が、さらに鍋島の人生の芳醇にする一助となることを願っています。

    ありがとう。

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  2. がっつり添削ありがとうございました!
    こんな感じで見てもらうのは7年ぶりとかですかね?笑
    この本を紹介してもらった時から始まって、異国の地トロントでこういう展開になってなんか感慨深いですね
    とりあえずもつ鍋食べたいです。笑

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